LOGIN白い花は、小さな銀の箱に入っていた。
箱そのものは美しい。 白絹を敷いた中に、一輪だけ。 茎を短く切られた、白い花。 花弁は薄く、先が少し丸い。 香りはほとんどない。 毒々しさもない。 だからこそ、嫌だった。 毒があれば分かりやすい。 棘があれば避けやすい。 だが、その花はただ静かに、清らかな顔をして横たわっていた。 セレスティアは銀箱の中を見下ろしながら、胸の奥が冷えるのを感じた。 白。 ミレイユの色遊びでは、嘘の色。 外へ見せる顔。 礼儀正しく整えられた、本音ではない言葉。 その白い花が、ノエル宛ての正式な面会要求に添えられていた。『私は孫娘に直接別れを告げたいだけです』偽物の青いリボンを見たとき、ノエルはまず黙った。 朝の小部屋。 机の上には黄色い袋に包まれた箱。 布兎はノエルの膝の上。 本物の青いリボンは、布兎の耳に結ばれている。 セレスティアが持っているのは、布包みに入った別の青。 本物に似せて作られた、けれど本物ではない青。 ノエルはそのリボンを見て、少し眉を寄せた。「似ています」「ええ」「でも、違います」「そうね」「本物より、少し明るいです」 セレスティアは頷いた。「リュシアン閣下が、まったく同じにはしないほうがいいと」 ノエルはリュシアンを見た。「どうして?」 リュシアンは、少しだけ考えてから答えた。「本物と偽物が、同じ顔をしすぎるのは嫌だった」「リボンに顔はありません」「そうだな」「でも、少し分かります」「そうか」「本物は、布兎のです」「ああ」「偽物は、危ないところへ行く役です」「そうだ」「かわいそうです」 ノエルはぽつりと言った。 セレスティアは胸が痛くなった。 ただの布だ。 そう言うのは簡単だ。 けれど、ノエルにとっては、ただの布ではない。 物にも役目がある。 怖さを預けられたもの、戻る約束を結ばれたもの、誰かに命じられたもの。 それを簡単に捨てたり、使い潰したりすることが、ノエルは苦手なのだ。「戻します」 セレスティアは言った。
白い花に、返事を書くべきか。 ノエルは朝から、そのことで悩んでいた。 白い花そのものは、もう小部屋にはない。 薬師が調べ、監査官が記録し、今は証拠保管庫にしまわれている。 ノエルの部屋にも、食卓にも、廊下にもない。 それでも、花というものは不思議だった。 そこになくても、匂いだけが残るような気がする。 実際には匂わない。 けれど、頭の中で白い花が咲いている。 そういう顔を、ノエルはしていた。 朝食の卵は、三分の一だけ食べた。 スープはよく飲んだ。 硬いパンは、今日はスープに入れない。 机の下では、犬のパンが丸くなっている。 昨日、リナに貸し出されなかったことを知っているのか知らないのか、相変わらずのんきな顔だ。「白い花は、ありがとうって言いますか」 ノエルが突然言った。 スプーンを置き、皿の横の硬いパンを見ながら。 セレスティアはすぐに答えなかった。 リュシアンも紅茶を持つ手を止めた。「おばあさまが、花をくれました」 ノエルは続けた。「花をもらったら、ありがとうって言います」「そう教わりましたか」「はい」「誰に?」「マルタと、お母さまと、おばあさまです」 最後の一つで、声が少し小さくなった。「贈り物をもらったら、ありがとうって言いなさいって」「礼儀としては、そう教わることが多いわね」 セレスティアは言った。「礼儀」「ええ。人と人が、角を立てずにやり取りするための形です」「形」
白い花は、小さな銀の箱に入っていた。 箱そのものは美しい。 白絹を敷いた中に、一輪だけ。 茎を短く切られた、白い花。 花弁は薄く、先が少し丸い。 香りはほとんどない。 毒々しさもない。 だからこそ、嫌だった。 毒があれば分かりやすい。 棘があれば避けやすい。 だが、その花はただ静かに、清らかな顔をして横たわっていた。 セレスティアは銀箱の中を見下ろしながら、胸の奥が冷えるのを感じた。 白。 ミレイユの色遊びでは、嘘の色。 外へ見せる顔。 礼儀正しく整えられた、本音ではない言葉。 その白い花が、ノエル宛ての正式な面会要求に添えられていた。『私は孫娘に直接別れを告げたいだけです』 レイモンド伯爵夫人の文は短かった。 丁寧で、品があり、誰が読んでも「最後に孫へ会いたい祖母」の言葉に見える。 だが、セレスティアにはその文字の下に別の言葉が透けて見えた。 まだ、あの子は使える。 そう言っているように見えた。「薬師の確認では?」 リュシアンが低く尋ねた。 書斎の机には、銀箱、面会要求書、後見局からの転送書類、そして押収品一覧が並んでいる。 朝だというのに、部屋の空気は夜のように重い。 家令が静かに答えた。「花そのものに毒性は確認されておりません。ただし、ごく薄い香料がつけられているとのことです」「香料」 セレスティアは顔を上げた。「甘く苦い匂いですか」「いえ。今回は、ほとんど香りのない清香です。葬儀や別れの挨拶に使われ
夜が明ける前の屋敷は、音が少ない。 けれど、眠ってはいない。 台所では湯が沸き、厩では馬が鼻を鳴らし、廊下では騎士の靴音がいつもより柔らかく響いている。 セレスティアは手袋をはめながら、窓の外を見た。 庭の黄色い花は、まだ夜の色の中に沈んでいる。 朝になれば見える。 けれど今は見えない。 それでも、そこにある。 そう思うことに、最近少し慣れた。「準備はできたか」 扉の外からリュシアンの声がした。「はい」 セレスティアが答えると、彼はすぐには入ってこなかった。「入っていいか」 セレスティアは少し目を瞬かせた。 以前なら、彼は用があれば当然のように入ってきただろう。 少なくとも、扉の外で一拍置くような男ではなかった。「どうぞ」 リュシアンが入ってくる。 黒い外套。 腰に剣。 表情は硬い。 ただし、昨日よりは少し整えようとしているのが分かった。「顔」 セレスティアが言う前に、リュシアンが自分で言った。「戻る顔にしているつもりだ」 セレスティアは一瞬だけ言葉に詰まった。「……努力の跡はあります」「足りないか」「十分かは、ノエルに確認してください」「厳しい審査だな」「ええ。後見局より厳しいかもしれません」 リュシアンは少しだけ口元を動かした。 笑った、のだと思う。 たぶん。 そのまま二人でノエルの部屋へ向かった。
子供が消えた夜の翌朝、屋敷の空気は変わっていた。 誰も大声を出していない。 廊下を走る者もいない。 使用人たちは普段通りに盆を持ち、扉を開け、茶器を下げる。 だが、静けさの質が違う。 昨日までの静けさは、ノエルを驚かせないための静けさだった。 今日の静けさは、誰かの悲鳴を待っているような静けさだった。 セレスティアは、その空気が嫌だった。 ノエルも察する。 子供は、こういう空気を大人が思うよりずっと早く吸い込む。 だから朝食の席では、できるだけいつも通りにした。 卵は半分。 スープは三口多め。 硬いパンは、今日はスープに浸さず皿の横。 犬のパンは机の下で、セレスティアの靴紐を狙っていた。「パン」 ノエルが低い声で呼ぶ。 犬のパンは顔を上げた。「それは食べません」 パンは尻尾を振る。「分かっていません」「靴紐を食べる犬は、あまり賢くないかもしれませんね」 セレスティアが言うと、リュシアンが真面目な顔でパンを見た。「だが、警戒心はある」「靴紐に?」「動くものに反応する」「褒めるところが苦しいです」「ノエルが名前を決めた犬だ」「だから甘いのですか」「少し」 ノエルが二人を見た。「パンは、少しだけえらいです」 そう言ってから、すぐに皿の横の硬いパンを見た。「食べるパンも、少しだけえらいです」「パンが?」「はい。昨日はスープに入れられました」
御者トマ・グレイが見つかったのは、昼を少し過ぎた頃だった。 場所は、王都南区の古い共同厩舎。 屋根は低く、干し草と馬糞と古い革の匂いが染みついた場所だという。 騎士団が踏み込んだとき、トマは馬房の奥で震えていた。 逃げようとしたのではない。 隠れていた。 片手には、刃の欠けた小さなナイフ。 もう片方の手には、子供用の髪飾り。 青い硝子玉のついた、安物の髪飾りだった。 報告を受けたリュシアンは、しばらく何も言わなかった。 書斎の机の上には、昨日見つかった馬車記録と、レイモンド伯爵夫人の手紙の写しが並んでいる。 そこへ新たに、御者発見の報告書が置かれた。 セレスティアは、その髪飾りの記述から目を離せなかった。 子供用。 青い硝子玉。 安物。 そういう細部が、胸に嫌な重さを落とす。 ノエルの青いリボンを思い出したからかもしれない。 子供のものには、どうしてこうも簡単に大人の罪が絡むのだろう。「会いに行く」 リュシアンが言った。 声は低い。 硬い。「私も行きます」 セレスティアが答えると、彼は一瞬だけこちらを見た。「止めても無駄か」「無駄です」「分かっていた」「では、聞かないでください」「一応だ」「優しさですか」「確認だ」「七割くらい優しさでした」「勝手に増やすな」 いつものような軽口に聞こえた。 だが、二人とも顔は笑っていなかった。







